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世界の終りと。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド読了。
もう何回読んだか忘れるくらい読んでます。

物語としての村上春樹の小説の中で一番好きな小説。
この小説は「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」の2つの物語がお互い関係を持ちながら平行に進んでいきます。

「ハードボイルド・ワンダーランド」の「僕」の世界は終わっていき、「世界の終り」の「僕」の世界は終りから始まる。

「世界の終り」の世界を読むと、病院の庭とか、北海道の牧草地とか子供時代とかを思い出す。
関連は「そこ」には「その意味」しかないってことだと思う。
病院の庭は誰のものでもなくだた「庭」ではあるだけ。母親が入院をよくしていたので、見舞いに行くことが多かったから記憶に残っている。病人は指定された時間しか入れない。誰かの所有物ではない。退院すると訪れることもない。個人で家庭菜園や好きな花を植えるなどできない。ただ病院の庭は一般的な「庭」であるだけ。
北海道の牧草地や子ども時代などは、自分の過去の記憶で、変わらない風景として固定され、その固定ぐあいが「世界の終り」を思い出してしまう。

始まりもなく、終わりもなく、繰り返される世界。
「世界の終り」では労働や行動にはその行為以上の意味はなく、労働は純粋に労働のための労働であり、行動は純粋のその行動の意味しかもたない。付加価値とか貸し借りとか影響とかが存在しないのが終わりの世界。

誰かの行動が誰かの世界に影響を与えているから、今僕がいる世界は終り足り得ないのか。
自分が誰にも影響を与えず、誰からも影響を受けなくなった時に、自分の世界は終わって、それはとても怖いことだ。だから「ダンス・ダンス・ダンス」の「僕」のように、とにかく踊り続けるしかないんだろう。
「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ。なぜ踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。」
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熊の場所。

小学校とかの昔と今とを比べて思うことは、恐怖を意識することが減ったということ。
換言すると、意図せず自分が関わるべきでない場所に遭遇することが少なくなったってことだと思う。
はじめにそれを思ったのは高校に入ったとき。公立の小中学校と違い、近い学力レベルの人が集まるってだけでこんなに雰囲気や気配が変わるのかとびっくりした記憶がある。色々な意味を含む暴力の部分で。小中学校で特別に激しかったわけではなかったんですが。

恐怖を消し去るには、その源の場所に、すぐに戻らねばならない。
では、戻れなかった場所はどうなるのか?そこには近寄らないが今の僕の立ち居振る舞いになっていると思う。

そうやって、自分が行けるべき道の選択肢を削っていった結果、偶然の導くところで僕はここにいます。
選択肢を削ることが、いいことか悪いことかはわからないが、結局自由ってのは、選択肢が複数あるってだけで、最後に選べるのは一つであること自体はかわりがなく、選択肢がほどほどに絞れたのは、僕にとっては良いことだと思いたいです。

色んな人がいる、で思い出すのは北海道。渡り(夏は北海道、冬は沖縄でバイトをして旅を続ける人)の人や、ワーキングホリデーで海外でいた人。「大学卒業したら就職する」は決まっていることじゃなくて、決めていることだとわかったのはこの旅だった。休学とか他の選択肢の中で、やっぱり大学卒業したら就職しようと思えたのは、ただなんとなく就職は前提だからで考えるよりも、自分の中では良かったとは思っています。

「鬼神は敬してこれを遠ざく」のが恐怖を与えられる可能性があるものに対して取るべき行動で、八百万にいる神様に対して適切に対応していく人が「運がいい」人なんだろうなぁ。

自己療養としての文章。

困った。書きたいことがあるのだが、何が書きたいのかわからない。
という状況に久々に陥りつつはや小一時間。眠い。
なら別に書かなくてもいーじゃんとも思うし、実際その通りなのだけど、ここまで「何か書きたい」感じになったのが久しぶりなので、何を自分が書きたかったのか思い出すために文章を書いています。

こういう気分で思い出すのは、学内講座の面接対策。
個別の面接指導で、自分でもはっきりわかるほど文字通り精神力を使わないとできなかったことが、相手の体験を引き出して引き出して引き出して、引っ張り出て来たものをまた一緒にまとめ直すこと。
一度、受講生から僕のカウンセリングについて「肯定も否定もしない。自分の主観も入れない。ただその人の経験や思っていることを引き出させる」みたいに評されたことがありました。多分それが僕がしたいと思っていた、カウンセリングの方法で、そういう風に感じてくれた受講生がいて、嬉しかったので、記憶に残っています。話した場所すら覚えているくらい記憶に残っている。

僕のカウンセリングの方法には明らかにモデルがいます。
村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」の主人公。もしくは羊男。
ねじまき鳥クロニクルの主人公は「仮縫い」という行為で、自分の中に他者を通し他人のなにかを癒す。
羊男は配電盤として「僕」のまわりにあるものを繋げる。

二人の行為はいわゆる媒体で、自分の中に他人を通過させる(羊男は繋げる)だけで、そこには自分の意思も意図もなく、ただ通過させるだけ。

自分がカウンセラーとして相手と接するとき、そうやって接してきました。
これが、潜るって比喩表現が一番しっくりきて、相手と一緒に潜るのにめちゃくちゃ体力精神力を使う。
相当深くまで潜らないと見えてこないものもあったりするし、意外とすんなり引っ張りだせてよかったね、ってなる時もある。相手のテンションとかによっても出てくるものも違うし、ヘタすりゃ呑まれる。

こういう「一緒に潜る」ってことが、箱庭であったり何かであったりするのかなぁ。
今度、久しぶりにキャリアカウンセリングの仕事があるけど、潜るための肺活量や体力を付けとかないといかんと思いました。

とゆーことで、「ねじまき鳥クロニクル」と「下流志向」を再読しよう。

みずが甘い。

大学の帰りは、川沿いを自転車で走って帰るが、今年は頻繁に蛍を見る。
蛍かー。地元は住宅地だったこともあるし、そもそも川がないので、日常で蛍をみるなんてなかったもんなー。
蛍はすっごい田舎にしか存在しない、めだかの学校とか、カブトムシとかと一緒にレベルでした。さすが大都会岡山。許容レベルが違う。

蛍を初めてみたのは、高校生1年生の時。文化祭の打ち上げで泊まったコテージが初めてでした。
あれからだいぶ経つけど、あんまり自分の中で何かが変わっている感じがしないのが、いいことなのか、悪いことなのか。
自分の今までで一番大きい区切りが、高校まで-高校以降の区切りで、今のところその当時のような大きな区切りはない状態。そら変化はあることはたくさんあるけど、「高校生活みたいな(地続きで大学生活のような)仲間や社会を作りたい」っていう部分が全然変わらん。

思えば遠くに来たもんだ。
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